西尾維新『きみとぼくの壊れた世界』

表紙以外を借りたので、画像情報も載っけないことにする。正直に言えば、こういう絵のついた本というのは好きではないからだが。No Imageを選択できれば良いな、と思う。
で、中身。こう言っては悪いがまったく理解できない。登場人物が。理解を放棄しているという面があるのは否定できない事実。ただ、言い訳もしておきたい。人物の理解、というのは自分の中にいくつかある人格モデルの線形結合と比較して行うものだと思う。だから、今までには知らないタイプの人間と出会えばモデル自体を新たに作る必要がある。一作品につき一人ぐらいなら、まぁモデルを作っても良いかなと思う。ただ理解の範疇にない人間が複数人でてきたからそれを放棄しただけ。
犯人だが、探偵役が指摘する数行前の指摘を読んだ時になんとか分かった(気がした。こう書くのは、根拠がだいぶ間違っていたから)。そんなのは常識だ、とか言われても知らなかったのだから仕方ない。幸いその知識を持っている知人は多数いるので愚痴ろうかと思う。
常識というものは集団の性質に依存する。人は自分の所属したことのある集団を一般的なものだと考える傾向がある(僕もそうだ)から、そんなのは常識だろという台詞を気軽に言う。自分の知識が常識の範疇にあるかを検討してみるのも大切な気がした。気がしただけで何も変えようとは思わないが。